転勤妻になって私が感じた3つの不安と、それを乗り越えた方法

辛かった時のこと
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私が転勤妻の経験を書く理由

こんにちは。みゃーもブログへようこそ🐰

令和6年4月18日からスタートした当ブログは、普通に検索していただいても上位には上がりません。
なのに、ここに辿り着いてくださった方は、どのようにして来てくださったのでしょうか🌹
インスタもやっていますがフォロワーさんは9名です💧だから、来てくださった方は、とても貴重な方です。本当にありがとうございますm(_ _)m

私は20歳から転勤妻として15年間過ごしました。
その後、ひとり親歴12年移行期5年を経て、現在三男との2人暮らし歴5年です。
ひとり親歴12年と書きましたが、三男が20歳を迎えるまでの年数です。
一応、世間では成人となる年齢ですので・・・
移行期というのは、一旦家を出た長男が一時戻ってきたり、まだまだ自立が不安定な時期がありましたので、移行期と呼んでます笑

今回、過去の転勤族時代の不安やもがきを記事にするにあたり、現在転勤で苦しい思いをしている妻の方々のココロの拠り所となれれば・・・という気持ちから始めました。大それた思いかも知れませんが、、、。

転勤妻になって私が感じた3つの不安

3つの不安の中身

①子育ての不安

②仕事やキャリアプランへの不安

③ゴールが見えない不安

どのように考え、乗り越えたか

子育てについて

15年間で6回の引っ越し

幼稚園の転園は長男・次男が2か所(長男:熊本と奈良 /次男:奈良と山口)、三男は保育園2か所(埼玉と京都)、小学校の転校は長男次男が3校(長男:奈良、山口、埼玉)(次男:山口、埼玉、京都)、三男が2校(京都府内)でした。

学校に行きたくないと泣いた次男

今も鮮明に覚えていることがあります。次男が2年生に進級するときに山口から埼玉に転勤となり、2年生になったばかりの次男が朝玄関ドアの前で「行きたくない」と初めて泣いてごねました。ちょうど夫も出勤時間で、狭い玄関で少しなだめてはくれましたが、次男のほっぺたを「グズグズ言うな!」と引っ叩いたのです。そして、そのまま出勤していきました。

その時の次男の涙と気持ちを考えると、今でも涙がでてきます。

子どもはたくましい

私は、何も言うことができなかったのですが、4年生の長男がいたのでどうにか登校してくれました。
以後、玄関でぐずることなく登校してくれて、お友達もできてホッとしました。
幼稚園から慣れ親しんだお友達と同じ小学校にあがり、1年間過ごし、2年目から全く知らない土地で知り合いも誰も居ないところで登校する・・・
その子どもの性格にもよりますが、泣く子は泣きますよね。ただ、その一回だけだったことが、何よりの救いでした。
そして、子どもは親が思っているよりたくましいのです

転校先でのいじめへの対応

また、治安の問題ですが、平成時代はまだ校内暴力が問題の地域がありました。
引っ越しをする前に、学校区域を確認し治安を確認ましょう。

そんな時代に長男が中学1年生になる年に転勤となり、転勤先の京都の中学校が荒れていたのです。
私としては地元に戻れて嬉しかったのですが、20歳で京都を離れているので、どの学校が荒れているのかなど全くわからない状態です。
当時は、携帯電話は普及していましたがスマホはない時代です。

長男が部活中、別の部の同級生から顔につばを吐きかけられました。
転校生だということで、そんな扱いをされたのかと思うと情けなくて、悲しくて・・・

私はすぐに学校に抗議の電話を入れました。
すぐに電話をして、すぐにそのような行為をやめさせることが大事です。
先生に言うとチクったと報復を考える生徒もいるのでは・・・?という恐れを抱く前に行動です。即、行動に移すことです。
その時には、学校に対して、転校生の気持ちを考えてほしいことと、報復が怖いこと正直に訴えました。遠慮している場合ではありません。
結果、幸いにも息子とその同級生は和解し、以後そのような行為はなくなりました。

小学校、中学校の転校では、学習状況もズレが生じます。
しかし、そこはなんとか息子たち自身でクリアしていった感じです。

小児科は口コミと相性で決める

一番困ったことは病院です。
小さい子供はすぐに熱が出ます。
かかりつけの小児科をみつける前に発熱することもありえます。
私は三男を出産するまで運転免許を取得していませんでしたので、受診そのものが徒歩、公共交通機関、タクシー、もしくは自転車で向かわなければいけません。

奈良に転勤した頃、夕方発熱し近くの小児科に行きチャイムを鳴らしましたが、初診であることを理由に断られました。
転勤族じゃなかったら、初診を理由に断られるなんていう淋しいこともなかったはず。
そう考えると、また息子に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

小児科は、口コミを大いに活用しました。
口コミといっても、今のようにスマホはありませんから、ご近所の方に教えてもらうようにしました。まだそんなにご近所や幼稚園、学校の保護者と仲良くないときは、とりあえずここかな?と思った小児科へ行ってみて、違うと思ったら別へ行く。
先生との相性もあるので、当たって砕けろ的な考えでやってきました。

無理して周りに合わせない

人間関係は一番ストレスだったと言えます。

子ども達も夫も新しい学校や職場に慣れるまではストレスがかなりあったと思います。
でも、夫は転勤先で出張が多かったのであまり話し相手にはなりませんでした。
それに仕事の愚痴を家庭で一切言わない人でした。

とにかく会話が少なかったことが悔やまれます。
もっとコミュニケーションを取ればよかった。当時は、お互いが未熟だったのだと思います。

ある転勤先では、私の一言が悪く受け取られて、同年代の子どもを持つママ友ほぼ全員からいじめを受けました。みんなで公園で遊んでいたのに、私達親子だけ、公園に残し、あとはみんなで車ででかけていきました。私自身の心に、隙間風が吹き込んだ音が聞こえました。
本当に「ヒュー」という音が聞こえるかのような孤独感を感じ「私は一人だ」と強く実感したことを覚えています。

それから、どうにかみんなと仲良くしようとして、行きたくもないグループの忘年会に行ったりもしましたが、それらはすべて間違った生き方でした。
なぜ、無理してまで好かれようとしたのか。
なぜ、夫を説得してまで忘年会に参加したのか。全くおもしろくないのに・・・

無理をして、気の合わない人に合わせる必要はありません。
あの時、他人優先じゃなく、自分の家庭優先に考えればよかった。
どうせ、数年後には離れる土地です。
その土地で、自分優先に考えて転勤先で頑張っている家族を一番大切にすること。
それが、心を守ることにつながります。

そのうち、少し離れた場所に、本当に気の合うママ友グループができて、そっちで行き来するように変化していくことができました。パッチワークを教えてもらったりして楽しく過ごせました。

仕事やキャリアプアンについて

アルバイト

社会人経験がないまま転勤族の妻になり、それがゆえに自分の甘さに気づくことになります。
自分の力でも収入を得たいという願望が大きくなり、長男6歳、次男4歳の頃、まずはアルバイトを始めました。
そして、始めたのが朝の新聞配達です。自転車で配達していたので、いい運動になりました。
こうして、少し社会に出ることで、働きたい欲望を満たしていました。
それに、このときは近所でいじめにあっていた頃でもあり、気分転換にちょうどよかったのです。

過去の経験の棚卸しをする

しかし、いじめからのストレスは地域生活以外の場所によりどころを求め、一層仕事というものに執着がでてきました。
「今の私には何ができるか」「私にできる仕事なんてあるのか」・・・
悶々と過ごしました。

そんなときに、子供の頃から習っていたエレクトーンを再開したいという思いが湧き上がり、人に教える立場になりたいと思い始めました。
そのためには、もっと上達しないといけません。
子どもが小さい最初の1年は自宅に先生に来ていただき習い始めました。
4年後、教えることができるレベルまでようやく達し、自宅でエレクトーン&ピアノ教室を開くことができました。また、楽器店経由で大正琴をご年配の方々に教えるようになり、その頃が一番充実していました。 いじめられていた場所から2回転勤してからのことです。


今の環境でできることから始めてみる。子供の頃好きだったことでもなんでもいいので趣味でも始めてみることが、転勤のしんどさから別のところにシフトできる唯一の時間でした。

生徒さんとの別れと喪失感

自宅で教室を始めたころは、チラシを投函し少しづつ生徒さんを増やしていきました。
チラシ100枚で、1件問い合わせがあれば良い方で、とにかく一生懸命でした。
次第にアルバイトで稼げる程度の収入を得ることが可能になりました。
他の先生方との交流もでき、充実した気持ちでした。
しかし、3年後転勤でその生徒さんや先生方ともお別れとなりました。

「せっかく来てくださってるのに・・・」と悔しい気持ちと申し訳ない気持ちが入り混じりました。
転勤先の京都では、また一からチラシ配りを始め、生徒さんも少しづつ増えました。

また、長男が中学生になるタイミングで、制服が間に合わない問題があり、こういう点でも転勤を恨んでいましたね。結果は間に合ったのですが・・・

あとは、長男次男はその時点で小学4年と6年生。スポーツをしており、地域での交流も密度がありましたので、また、一から人間関係の構築か・・・と残念に思いました。

ゴールが見えない不安

転勤妻は大変だと、仲人さんが言ってました。その時は、ピンときませんでした。
しかし、いざその身になると「根無し草」の感覚が大きくなり、地元京都に戻りたい。
安定した暮らしがしたいと強く望むようになりました。
環境の変化と、3人の子育て、出張の多い夫、親も友達も兄弟姉妹も遠いという現実

夫には地元に帰りたいと伝えました。
しかしはっきりした返事はもらえないまま時間だけが過ぎていきました。
夫の同期のなかには、転勤なしの人がいましたが、彼らは出世できる範囲が限定されるようです。
でも、うらやましかった。

7回目の辞令で単身赴任そして、夫との別れ

6回目の転勤で京都に戻ることができました。しかし、1年で長野へ転勤辞令がおりました。
長男は中学生。さすがに単身赴任です。

夫は、出世したかったのだと思います。
私は、地元で落ち着きたかった。

だから、お別れすることにしました。
長男15歳、次男13歳、三男8歳の春でした。

具体的にお互いの気持ちを、まともに話し合ったことがないのが一番の問題です。
話し合いの場を持ってくれないと思っていましたが、夫からすると言わなくてもわかっているだろうと思っていたのかも知れません。
彼も転勤家庭で育っており、お父さんは単身赴任だったようです。
それが、当たり前の家族像だったのかも知れません。
反対に、私の実家は地元から離れたことがありません。
それが、当たり前の家族像だったのです。

家族は同居しているものとして育った私にとって、夫が単身赴任することは、受け入れが難しかったのです。

まとめ:今思うこと

すべての転勤妻が私のように辛く感じているとは限りません。
ネットを検索すると、「旅行気分で楽しんでます」という転勤妻さんもたくさんおられます。
私もそうなったほうがいい、そう考えるべきだったのでしょうか。
いや、そう考えるようにしていた時期もありますが、どうしてもしんどかったのです。
多分、性格にもよります。

私は、夫に対して腹を割ったコミュニケーションをとれないままお別れしました。
お互いコミュニケーション技術に欠けていたのです。
夫の会社へ恨みのような気持ちさえ終盤には持っていました。


私は、疲れやすかったり、たくさんのタスクをこなす場面で混乱しやすいです。
そんな特性を当時は、怠けものだからだ、気合が足りないのだと否定し続けました。
結果、転勤族の環境の変化につていけず、バーンアウトするしかなかったのです。

大丈夫。なんとかなる。

東寺 五重塔



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